文學ラボ@東京

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テーマ小説:「一行目に死体」(森田さえ)

メンバー全員が同じテーマで小説を書いています。今回のテーマは「一行目に死体」です。

あることの罪(テーマ:一行目に死体)

森田さえ

 

 ワカバくんを殺した。

 

 ワカバくんというのは私の実家近くにあった大きいスーパー『ひなげし屋』のマスコットキャラクターで、ある日仕事から帰宅したらハムを食べていた。私の冷蔵庫から、私のハムを取り出して食べていた。

  気が動転した私は持っていた鞄でワカバくんを殴りつけた。鞄の中にはMacBookが入っていたので、ことによっては死ぬかもしれないと理解していた。でも殴った。合計36回殴った後ワカバくんの脈を取ったところ、死んでいた。完璧に-彼は-死んでいた。文節の区切り方について考える。完璧に-彼は-死んでいた。

 

 現実を、抽象的に、変革させろ。さもなくば現実は私を殺してくるぞ。

 

 ワカバくんは私に殴り殺されたというので大変怒っていた。それはそうだ。そうかもしれないけれど、私ももううんざりしていた。「だってひなげし屋は随分前に潰れちゃったじゃん」それももうどれぐらい前のことか思いだせない。私が24歳のときか、もしくは27歳のときだったような気がする。「あんなところに、ひなげし屋に俺はいたかったのに、それなのにあんなところに俺をやった」仕事に行かなくちゃいけないとワカバくんは言う。それはずっとずっと以前の話だ。それは-ずっと-ずっと-以前の-話だ。

 

 私はワカバくんを身にまとう。「俺が」ワカバくんの思考はワカバくんの母親に向かっている。「俺があの婆さんを104歳まで面倒見てやった」それも随分前のことだ、随分、随分前のことだ。「あの婆さんのために俺は1億円も出してやった」「重いね」「なに」「きぐるみって着ると重いよ」仕事とは、「人の嫌がることをやるってことなんだよ」「私のことわかる」「キャバクラのお姉ちゃんだろ」私はあなたを殺してしまったので、あなたを看取る義務がある。

 

 煙草だ。お酒だ。素面じゃやっていかれない。煙草だ。お酒だ。落ち着け。私はきぐるみの中で悟られないように下腹部の痛みに耐える。「もしも私が酔っ払ったら」誰がワカバくんを止められるんだろう、もしも彼がいたずらに外に出ていってしまったら?

 

 こんな淀んでいる、こんな淀んでいる現実の中では希望は機能しない。

 

 私はワカバくんがまだひなげし屋のマスコットキャラクターであった頃のことを考える。彼はあの頃勇猛果敢だった、私の唯一の理解者だった。そして私もまた、彼の唯一の理解者だったのかもしれない。私たちはお互いに惹かれあっていた。

 

 私は彼の、私は彼の求める人間であろうとした。それは彼に出来なかったことだ。私は彼の求める人間であろうとした。

 

 机の長さは32センチだ。辞書の長さは23センチ。綿棒の長さは、分からない、おそらく8センチ、ワカバくんの性器の長さは「未使用時」7.8センチ。ワカバくんが排泄しきる間、私はそういうことを考える。使用するときはどれぐらいの長さになるだろうか。かつて使用されていたワカバくんの性器。その現在を私は眺める。

 

 石鹸で洗って。母乳じゃ生きられないからあなたの排泄物はひどく臭い。知ってる? 赤ちゃんも離乳食が始まると排泄物がヒトらしい臭いになるってさ。どうしてあなたの排泄物は赤ちゃんみたいな臭いにならないの。

 

 それとも母乳で育てればいい?

 

 耐えきれない、耐えきることの出来ない現実は全て数字に置き換えればよい。それは何の救いにもならないけれども、とにかくそれが何センチなのかは分かる。こういうことを昔渡辺くんに教えてもらった。

 

 ワカバくんを着て生活すると私が宣言したとき、一方渡辺くんは、私と別れることを宣言した。普通に考えて変じゃん。きぐるみきて生活する人なんていないから。「きぐるみってさ」「聞いてた? 俺の話」「気狂いみたいだね、もしくはさ、身包み剥がれたとかさ」「あんたおかしいよ」渡辺くんは私のことをおかしいと言って、私はそれもそうだと言った。「私はおかしいけど渡辺くんだってそのうち絶対わかるよ、私は29歳でこういうことになっちゃったから渡辺くんよりちょっと早かっただけだよ、だって渡辺くんのお母さんはすごい若くて美人だから」「それとこれとどういう関係があるの」「だから分かんないでしょ」

 

 私は渡辺くんのために用意できる受精卵がなかったことについて考える。「別にお金くれとかそういうことじゃなくて、私が持っている時間全てを渡辺くんにあげられるわけじゃなくなったのって言いたかったの」「きぐるみ着て生活するって言ってる人がよくそういうこと言えるね、とにかくあんたみたいなメンヘラは元々嫌だったんだよ」

 

 ワカバくんはテレビを観ている。どうしてテレビはあんなに音が出るんだろう。ワカバくんの顔部分に空いた穴から私も番組を眺める。北海道の絶品食材・日高昆布を使った絶品の鮭丼。「流行語のひとつも知らないのにどうしてそんなにテレビが好きなの」私は分かっている。ワカバくんにはもう本が読めないのだ。元々あんな指じゃ、本なんて読めるわけがなかったけど。「『金持ち父さん 貧乏父さん』ぐらいしか読んだことなかったんじゃない」。ははは。ワカバくんは自分が努力をしなくても快楽をもたらしてくれるものが好きだ。自分が加害者にならなくても、自分に奉仕をしてくれるものが好きだ。要するに私のことは嫌いなのだ。「でも私キャバクラの人なんでしょ」「だからお金を」盗もうとしてる。

 

 この売女。

 

 私は私自身の財産を私のベッドの下にしまい込む。ワカバくんは低い場所にあるものが取れないと分かったのだ。ワカバくんは怒り狂っている。「俺のものを盗るな」私のものだって。「俺が与えた金でお前が買っただけだ」そうじゃないって。私が何年社会人やってきてたと思ってるの。「屁理屈を言うな、売女」スマコさんに聞いてみろ、お前の腐りきった性根を判断してくれる。「スマコさんは104歳で死んだでしょ」「スマコさんは20代で女の一番綺麗なときに俺を育ててくれたんだ」「スマコさんが死んだときにワカバくんも死ねたらよかったね」「俺に死ねって言うのか」「そんなこと言ってない」「俺を殺そうとしてる」「してない」「誰か。売女が俺の財産を狙って俺を殺そうとしてる」

 

 渡辺くんに会ってセックスが出来たらどんなに幸せだろうと私は思う。渡辺くんの性器の大きさなんて気にしたこともなかった。どんなに幸せだろうと思う。でも渡辺くんは私がきぐるみを着て生活をするので私のことを嫌いになってしまった。(これって私が悪かったのだろうか?)

 

 渡辺くんが言う。「そういう状態だって回避しようと思えば出来たでしょう」だって私が殺したんだもん。ここで面倒みなかったら保護責任者遺棄とかさ。だって一緒に住んでたわけじゃなかったでしょ。でもほとんど一緒に住んでたし。ほとんどって何。そもそもなんかさ、そんなに毎日嫌そうな顔をしてる人とは全然一緒にいたくないんだよ。俺さ、新しいプロジェクトのリーダーに抜擢されたんだよ。33歳でここまで出来るのはすごいことなんだよ。っていうかだから俺あのときそれを言おうとしてたんだよ。でもそういうときに「きぐるみを殺しちゃったからこれから着て生活する」とか言われると最悪なんだよ。お前は最悪だよ。最悪だよ。

 

 と言っている渡辺くんのネクタイのサイズは、スーツを着ていて全体の長さが分からない。少なくとも、ネクタイの結び目の長さは概ね6センチ程度。6センチだ。

 

 絶望するには少し早い気がして死ぬのはやめた。嘘だ。渡辺くんとセックスがしたいし、したいと言えば出来そうな気がしたから死ぬのはやめようと思った。「セックスしようよ」「気持ち悪いよ」お前本当に頭がおかしいよ。

 

 じゃあ誰が頭おかしくないんだろう。年収が3000万ぐらいあればいいのに。そうしたら色々なことについて考えるのをやめて私はヨーロッパに行く。ずっとポーランドに旅行したいと思ってた。1億円持っていればEUの市民権だって買えるんだから、5年ぐらい貯金をしてEU市民になってもいいな。私は夢想する。私は頭がおかしいし売女だ。1億円なんて誰がどうやったら用意できるんだろう。Facebookの創立者とセックスして1億円もらえたりしないかな。でもFacebookの創立者はニュースで見るところ随分夫婦円満みたいだからな。

 

 そこに割り込むのが私。彼らにも一瞬の倦怠期はあるはずなんだ。彼はイライラしていてさ、あの人名前なんていうんだっけ。数年前ちゃんと劇場で伝記映画を見たんだけどな。ごめん、TSUTAYAでレンタルしただけかも。でも私は英語が出来ないから、何も言わずに押し倒せばいいのかな。「こと」が済んだ後「誰にも言わないでくれよ」って怯えた顔の彼が1億円をくれる。アタッシュケースに1億円を入れて私はそのままEUの市民権を買いにいく。

 

 売女。

 

 ワカバくんが寝入ったらしい。きぐるみのあちら側からいびきが聞こえる。私はスマートフォンを見つめる。誰とも連絡を取らないのに、契約なんてしていたって無駄かもな。仕事を続けられればまだ違ったのかな。でももう私にはその体力がない。

 

 明日はワカバくんをお風呂に入れてさっさと寝かせてしまおう。47度の浴槽に入れると彼は喜んでいつもよりも熟睡する。ガス代は月に1.7万上がるけど、私が寝不足とストレスで死んでしまうよりも1.7万のほうが重要だとは思えない。1年で20.4万。どっちが安いだろう。私が死にかけたほうがお得だろうか。

 

 そもそも私が、もしくはワカバくんが生にしがみつく理由ってなんだろう。ああ、やめよう。スマートフォンの長さは14センチ程度、おそらく。

 

 LINEを眺めていると妹の瞳ちゃんのアカウントが目に入る。「一回でいいからこっち会いに来てよ」送信するとすぐに既読がつく。「だからさ、ワカバくんが一番好きだったのはお姉ちゃんじゃん、店潰れたときもさ、一番最初にお姉ちゃんに会いたがってたし。だからお姉ちゃんが一緒にいるのが一番いいんだよ、お姉ちゃん人の話聞くのとか上手いし」「っていうかさ、お姉ちゃん、ちゃんとワカバくんの話とか聞いてあげてる? 一回ちゃんと聞いてあげなよ。寂しがってるんだって」「あ、わかった」私は瞳ちゃんのアカウントをブロックする。スマートフォンのメモ帳機能に遺書を書く。「ワカバくんの面倒を看るのに疲れました。妹の瞳はちっとも私の話を聞いてくれませんでした。私は有罪かもしれないけど、瞳のことも有罪にしてください」。メモ帳ツールを閉じる。

 

 私はそのまま眠りに落ちる。大丈夫だ、何が起こっても私が死ぬだけ。

 

 その2時間後、ワカバくんは目覚める。「リモコンがない」「そこにあるじゃん」「お前が見つけられるってことはお前が隠したのか」そう言いながらワカバくんはテレビをつける。ボリュームを64まで上げる。悲惨なニュースを見てワカバくんは笑っている。「水商売の女が男を殺したぞ、お前みたいな女が男を殺した、お前も殺人者だ」私は歯磨きをしたいと思っている。15分ぐらいかけた丹念な歯磨きがしたい。最近はずっと1分程度で終わる適当な歯磨きしかしていない。虫歯が原因で死んだ人のことを考えている。虫歯菌が血液に入って、脳に移動して脳梗塞を起こしたり、心臓に移動して心筋梗塞を起こしたりするのだ。ワカバくんを着たことが原因で死んでしまったらどうだろう。でも、私は健康なので虫歯程度では死なない。それどころか虫歯らしい痛みも感じない。

 

 私が感じる私の体調不良は肩こりだけだ。下腹部もずっと痛いけれども、それはおそらくずっと生理が止まっているから。妊娠していたらいいのに。でもありえない。渡辺くんはコンドームを付けずにセックスをしようとすると「妊娠が怖い」と言って勃たなかった。どうしても勃たなかった。彼がなしくずしの性欲に負けてしまうことはなかった。というより、ラブホテルにはいつでもコンドームがあった。ベッドの脇に無造作に置かれたコンドーム、ブランド名の書かれていない緑色のコンドームをこともなげに開封する渡辺くんを見て私はゾッとした。「買ってよ」「なんで。泊まるだけで1万円もしてるのに、コンドームも料金のうちでしょ」渡辺くんはそのうち私にピルを飲んでくれと言うようになった。私はピルを飲むと吐き気がするから嫌だと言ったけど、私の体調不良よりも重要なことが渡辺くんにはあった。だから私が受精卵を有しているなんてことはありっこなかった。私が-受精卵を……。

 

 私はLINEを開いて、瞳ちゃんのアカウントにかけていたブロックを解除する。瞳ちゃんから何かしらのメッセージが入ればいいなと思う。瞳ちゃんは私のブロックに気付いてしまっただろうか。お姉ちゃん、ちゃんとワカバくんの話とか聞いてあげてる? 「瞳ちゃん面倒みないならお金ちょうだいよ500万くらい、そしたら許すから」そこまで入力して、送信するのはやめる。

 

 私も寂しい。私が今一番寂しい。ワカバくんは過去に何億円も稼いだけど、私は29歳までの今までで2100万ぐらいしか稼げていない。それに渡辺くんがいうには私はメンヘラなのだ。私が-今-一番-寂しい。でもそういう言葉に価値はない。お金にならないからだ。瞳ちゃんは今頃移住した鳥取県でうまくやっている。いや鳥取にもスタバあるから。っていうか気づいたけど、クオリティーオブライフを上げるのは伴侶と友人にどれくらい愛されてるかってことだけなんだよね。不便とかそういうの関係ないんだよ。だって私、今すごく幸せだし。お姉ちゃんもさ、渡辺さんと早く結婚しなよ。お姉ちゃんだって年にある程度は稼げるんでしょ。絶対大丈夫だって。

 

 絶対大丈夫。

 

 お金をせびりたい。誰かにお金をせびりたい。そうしたらワカバくんのことなんか考えなくてもよくなる。それで私は好きな仕事をする。例えば新宿のゴールデン街でくだらない歌を歌う。年に200万ぐらいしか稼げなくても毎日笑顔でいる。渡辺くんじゃなくても誰かと出会って結婚して幸せになる。子供も生まれる。私が子供を産んだら私みたいな人生は絶対歩ませない。でもワカバくんがいるからそういうことは出来ない。それにお金を生み出せない私にお金をくれる人はいない。

 

 ワカバくんはお腹が空いたらしい。「そうだね」オムツももうない。「駅のマツキヨまで行って、色々買ってくる」ワカバくんは足が痛いと言う。私だって足くらい痛い。そんなのは体調不良のうちに入らない。

 

 駅までの道すがら、ワカバくんは何度も「家に帰らせろ」と私に言う。私もワカバくんが家でずっと寝ていてくれればどんなに楽だろうと思う。そしてそのまま床ずれになってそれが原因で感染症にかかって死ぬのだ。「自宅できぐるみを看た経験がなくて」私は涙ながらにそう訴える。「あんなに元気だったワカバくんが床ずれになるなんて予想がつかなくて」きっとバレてしまうだろうな。私は嘘を吐くのが下手だ。それにきっと、「普通に看ていればわかるはず」と判断されるだろう。悪意の遺棄。通学途中の高校生たちが私たちを撮影する。「あれ何?」「ゆるキャラ?」「今どき?」「聞いたことない」私の代わりに買い物をしてくれる人間がいればいいのに。家まで来てくれて、食材を置いてくれるだけでいい。でも、それは出来ない。お金がかかりすぎる。ワカバくんは喚いている。「お前に外を歩かされて、俺が怪我をしたらどうする」本当にそうね、と私は言う。トラックが来てくれたらいいのに、と私は思う。でも駄目だ。それでは私も死んでしまう。

 

 ワカバくんは写真を撮られていることに気付く。「お前ら俺が誰か分かっているのか」と怒る。「キモ」「何? 気違いじゃん」ワカバくんは猛り狂う。「お前ら殺すぞ」手近な男子高校生に殴りかかろうとする。私はワカバくんを制御しようとするが一歩間に合わず、男子高校生はよろめく。「何こいつ」「警察呼ぼう」「いいよ遅刻するし、こんなのいくらでもいるって、うちのじいちゃんも死ぬ直前とかこんなふうだったし。行こう」ワカバくんはなおも殴りかかろうとするが、男子高校生は走り去る。「ゴミ、ぶっ殺してえ」吐き捨てられた言葉に、ワカバくんは叫ぶ。「お前が外に出ようと言い出すからこんなことになった。お前を殺してやる」「あのさ」私は言う。「パチンコ行こうよ、お金あるから」ワカバくんはパチンコという言葉にふと怒りを忘れる。「パチンコのお金あるのに、俺のお金を渡さなかったのか」「そう」「お前はとんでもない気違いだな」「うん」

 

 ぶっ殺してえ、という言葉は、どこでどう文節を分けられるんだろう。ぶち殺す、は打ち壊すからきた言葉のような気がするから、打ち殺したい、が正式な日本語だ。ということは一文節だ。私はパチンコ屋の音が嫌いだ。ボリュームを上げたテレビの音よりはまだ好きかもしれないけれど。

 

 ぶっ殺してえ。殺してえ。殺す。

 

 ワカバくんを風呂に入れて寝かしつけた後、私はその言葉について考える。今日、彼はテレビを付けたまま寝入ってしまったので、テレビを消すことは出来ない。消すと気付いて私が罵倒される。

 

 テレビアニメが始まる。巨乳の女の子が仲間の死によって覚醒し「殺す」と呟く。そして果敢に、敵に向かっていく。

 

 私はふと立ち上がる。今日買ったもののことを考える。私はワカバくんを脱ぐ。丁寧に脱ぐ。自分の臭いに愕然とする。私は台所に立つ。サラダ油を手に取る。チャッカマンを手に取る。私はワカバくんの枕元にサラダ油とチャッカマンを置くと、もう一度ワカバくんを着なおす。油をワカバくんにかける。ワカバくんは目を覚まさない。風呂に入った日、彼は熟睡するのだ。私は火を付ける。

 

 火は意外にも燃え広がらない。やっぱりガソリンじゃないと駄目だったのか、と私は思う。待つ。小さな火がワカバくんを材料に、徐々に大きく成長していく。

 

 ワカバくんが目覚める。「なんか分かんないけど、火をつけちゃったんだ、そういうことってあるよね」私は言う。「熱い」ワカバくんが言う。「私も」「熱い」「私も」「殺される。助けてくれ。死にたくない。こんなやつを信じた俺が馬鹿だった」「信じてなかったでしょ」

 

 死にたくないな、と私は思う。熱い。熱い、とワカバくんが言う。私も熱い。でも、ワカバくんはどれほど熱いのだろう。ワカバくんは私を信じていたのだろうか。信じていたのならどうして私にこんなことをさせたんだろう。「死にたくない」それを、

 

 ワカバくんが-言ったのか-私が-言ったのか-分からない。

 

 誰かが私を呼ぶ。「南條さん」胸のあたりに違和感があるのでまさぐると、テープのようなものが肌に張り付いている。「それ、取らないでくださいね。心電図を図っていますからね。南條さん、ご自分のお名前分かりますか」「南條葵です」「今、何月何日か分かりますか」「3月8日かと思います」「そうですね、3月12日です。なんでここにいるのか分かりますか」「分かりません」「南條さんね、家が火事になっちゃって、それでここに運ばれたんです。火傷はあんまりしていなかったんですけどね、煙をちょっと吸い込みすぎていたから、しばらく入院していました。妹さんが入院措置の同意書とかも書いてくれて、今日お見舞いに来てくれるそうなので、妹さんがいらしたら、そのときまた体の状態とかね、お話しますからね」「はい」

 

 南條葵。南條葵。南條葵。

 

 そういえば、それが私の名前だった、と私は思い出す。「瞳ちゃんは許してくれるかな」私は言う。歌を歌う仕事をしようかな。今日、瞳ちゃんは何時に来てくれるんだろう。そういうことを考える。

(了)

 

参考図書:

おちとよこ 『一人でもだいじょうぶ 親の介護から看取りまで』 日本評論社、2009年。

本岡類 『介護現場は、なぜ辛いのか 特養老人ホームの終わらない日常』 新潮社、2009年。

三好春樹芹沢俊介 『老人介護とエロス 子育てとケアを通底するもの』 雲母書房、2003年。

山内喜美子 『老人さん ある特養老人ホームの試み』 文藝春秋、2001年。