文學ラボ@東京

(文学をなにかと履き違えている)社会人サークルです。第22回文学フリマ東京では、ケ-21で参加します。一緒に本を作りたい方はsoycurd1あっとgmail.comかtwitter:@boonlab999まで(絶賛人員募集中)。

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本日の小説

 人はまだ、保存されることに完全に慣れたわけではない。私などは、保存されたところでせいぜい誰に見られるでもなくただただ暗闇の中で眠りこけていれば良い。楽なものだ。隣の小島さんとは比べ物にならない。

 小島さんはタクシーの女性ドライバーで、職業柄、街を走っているタクシーの営業所を確認するのが癖になっている。自分のところの営業所が近くを通りそうになるとさっと顔をそむけるが、他のタクシーを発見すると、「あ、あれは○○交通の世田谷営業所のタクシーだよ!」と私に教えてくれるほどだ。その表情があまりに嬉しそうなものだから、見られているほうの運転手も小島さんを見つけると手を振ってくれるようになった。小島さんはそれに気づいてから当分表情に喜びを浮かび上がらせるのを我慢していたが(小島さんは比較的恥ずかしがり屋だ)、すぐに観念し、自分も手を軽くあげて挨拶をするようになった。それが小島さんの悲劇の始まりだった。

 次第に運転手の間で、小島さんを見つけると仲間内で報告しあうようになった。それがエスカレートし、ついには手を振るどころか携帯で写真を取り、同僚で共有する文化が生まれた。小島さんにとってはたまったものではない。なぜなら、彼らが写真の小島さんを見ているということは、つまり小島さんの生き写しを見ているのであり、人が同時に見られる数には限界があった。小島さんは今まで同時に見られた数は、小学校の発表会で記録した200人が最大であり、基本的には路傍の石として生きようと努めてきた人間なのだ。それが今では1分間あたり数千から数万人規模…つまり東京都のほぼすべてのタクシードライバーが同時に小島さんを見る瞬間さえ発生するようになった。これは一大事だ。もちろん、小島さんを全く見れなくなったわけではない、それでも、二回に一回は小島さんが目の前から消えたりするようになったし、本当にひどいときには声をかけても返事もしてくれなくなったこともある。

 小島さん自身は四六時中自分の姿を見ているわけではない。そのため見えなくなってしまうデメリットといっても、化粧するときに若干困る程度だ。しかし私は困った。小島さんのことを自分は好きだし、それが見えないとなると、全東京都のタクシードライバーから小島さんの写真を奪って破り捨てたくなるほどだ。しかしそれは現実的ではない。私がいくらそれらを破り千切り燃やしたところで、写真は私のあずかり知らぬところで焼き増しされ、小島さんが複製されるだけだ。

 私はいてもたってもいられなくなり、小島さんの手を取った。この手が見えなくなったとしても小島さんはそこにいるのだし、触れられているというその点でタクシードライバーたちの誰よりも小島さんに近づいていることは確かだからだ。その時、小島さんが私を見た。小島さんの心の中である感情が芽生え、増殖した。それは光速より少し遅い速度で、タクシードライバーの間を伝播した。小島さんは私を見、すべての視線は、小島さんを媒介して私に繋がっていた。私はそれに耐えられなかった。私の気持ちはすべてのタクシードライバーの気持ちを支えられるほど大きい度量ではなかったのである。私の小さな小さな心はその一瞬だけが東京都内に散らばる各タクシーの中に切り取られ、霧散し、その後、私の心は人になにかを見せることを止めた。

 私はもうなにものも人に見せることはできない。もはや私として形を成しているのは、都内の路上に一瞬だけ溢れた、あのときの輝きの欠片だけだ。その内の一つでもいいから、小島さんの心にも残っていれば良いのだが。